「無気力」氏は、Amazonのレヴューで、モートンの「ヒューマン・カインド」について、連帯すべき人間ならざるものが何か読んでもよくわからない、と述べている。まあ確かに、この本は、一度読んだだけでは何言っているのかよくわからないので、何度も読まないとわからないのだが、実を言うと、筆者のティモシー・モートンも、「書いている自分にもよくわからないことを書いている」と訳者の篠原氏相手に述べている(それは、「複数性のエコロジー」という、以文社だったか人文書院だったかどちらか忘れたがそういう出版社から出ている本の巻末のインタヴューで語られている)。それは岩かもしれないし、猫かもしれないし、地震かもしれないし、ウイルスであるし、もしかしたら人間としての私自身が人間ならざるものであるのかもしれない。つまり、「人間」を中心にして作り出された哲学や文学の語りでは捉えがたい現実世界のディメンションに迫ることができるか、のみならずそれを言語で言い表すことができるかという、極限の思考実験の産物なのだ。まあたしかに、巻末の訳者解説は、この本の解説としては書かれておらず、むしろモートンのこの本を読んで訳者が考えるようになったことが何かをめぐって書かれていて、その点では「ヒューマン・カインド」の解説ではない。訳者はおそらく、本そのものは読者が読めばいいわけで、それについての解説などは不要と考えたのだろう。詩だけでなく、ときに絵本や漫画、さらには音楽の歌詞なども引用され、しかもその引用が哲学的な思考で問い詰めるべきところで急に出てしまうのは、たしかにモートンの思考の不徹底とも言えるが、じつのところ、モートンは「曖昧さ」つまりは結論を急がないことが大切だとも考えているので、明晰さは、不明瞭で曖昧なところを過度なまでに打ち消す点であまりいいものとはいえないという立場に支えられている。さらに、具体的な事例もないわけではなく、たとえばライオンのセシルが白人の歯科医に射殺されたという事例をめぐる議論は、動物愛護の問題を、人間ならざるものとの連帯をめぐる議論へと発展させた点でモートンに独自のものといえる。といってももちろん、object oriented ontologyを独自に発展させてnon-humanの問題系に介入するという立場自体、極めて独特なのだが、この独特さは、oooやnew materialism、SR、チャクラバルティなど、グローバルなコンテクストとして既に20年になろうとしている動向のある程度の理解がないとわからないのもたしかだ。そのあたりのコンテクストが日本ではあまり理解されない状態でいきなりこれが訳されてもよくわからなかったのかもしれない。ハイパー・オブジェクトやダーク・エコロジーなど、いくつかの著作の翻訳が待たれる。
しかしこの「無気力」とやら、チャクラバルティの「人新世の人間の条件」の日本語訳にもケチつけているのだが、要は自分のわからないことが書かれているのを目にすると何かイチャモンつけておかないと気が済まないのかね?